最近読んでいるのが、鹿児島シティエフエム代表取締役米村秀司さんがお書きになられた「その時ラジオは何を伝えたか」、「岐路に立つラジオ」の2冊です。(いずれもラグーナ出版刊)
昨年1月、FMふじやまで20年ぶりにマイクの前に戻り、さらに今年の2月からFMひがしくるめで番組を担当することになり、改めて「コミュニティFMとは?」を、真剣に考えるようになりました。
私がコミュニティFMに関わるようになったのは、1995年、むさしのFM、からでした。それまで学生時代のミニFMなどで、なんとなく「発信する側」に立ったような気になり、その気になり、広域・県域局のオーディションを落ちまくり、ようやくNHK FM『DJ ショー』に出演できたのです。少しだけ光が見え始めたところに、東京初のコミュニティFM開局という知らせが飛び込み、NHKが私を認めてくれたのだからと、鼻高々で門を叩いた私でしたが、しかし、認識が甘かったのです。思い切り鼻をへし折られました。糸居五郎さんや湯川れい子さん、さらにニューヨークWBLSのフランキー・クロッカーに影響を受けラジオを志したので、「カッコよく音楽を紹介したい」ということしか頭に無かったのです。むさしのFM開局前の研修やリハーサルで、当時の放送部長城野正幸氏などから、あらゆる面で「ダメ出し」をされ、ボランティアスタッフといえども「ヘタクソ!」と容赦なく罵声を浴びせますから、常に緊張していていた記憶があります。
本番中は厳しい城野さんでしたが、マイクを離れたら優しく、様々なお話しを聞くことができました。城野さんの盟友で詩人の清水哲夫さんからもよくお話しを伺いましたが、城野さん、清水さんから学んだことは「ジャーナルな感覚を常に持ちなさい」でした。コミュニティFMは報道機関であるということ、そしてボランティアといえどもマイクに向かえば「プロ」である、ということを認識しました。
考えてみたら、糸居さんもフランキー・クロッカーにも、「ジャーナルな感覚」が溢れていて、カッコよく音楽を紹介しつつ、世の中の動きもしっかり伝えていました。若さ故に、糸居さんやフランキーがカッコよく曲紹介する部分だけに耳が行き、気づかなかった部分でした。
忘れられないのが、函館で起きたハイジャック事件です。函館で起きたハイジャックと武蔵野市、一見関係無いと思われるかもしれませんが、関係者に武蔵野市民がいることを掴んだ城野さんは、通常番組から急遽特番に切り替え、関係先と電話を繋いだのです。
私はこの放送を目の当たりにし、「ジャーナルな感覚とは?」「コミュニティFMの役割とは?」ということを真剣に考えるようになり、自覚するようになりました。
むさしのFMのボランティアスタッフとして、土曜の朝ワイド、音楽情報番組を担当している時、北海道のAIR-G'(エフエム北海道)の、ある番組へ出演するため「寝台特急北斗星」で札幌へ行く途中、函館のFMいるかに立ち寄りました。ご挨拶だけのつもりが朝の番組に出演させていただき、初めて他のコミュニティ局のマイクに向かいました。
日本初のコミュニティFM局である、FMいるかを間近で見ることができたのは非常に大きく、ストリーミング放送もまだ始まっていなかった頃でしたが、函館市とその周辺の生活情報発信、防災情報発信はしっかりやっておられ、そして外にもしっかり目を向けていたという印象です。「コミュニティFMはどうせエリアが狭いのだからエリア内が充実すれば良い」という考え方が、当時のむさしのFMにも、他のコミュニティFM局にもあり、圏外には目を向けず、圏外のリスナーさんをも煙たがる傾向にありましたが、FMいるかは、内も外も大事にしようという気持ちが現れていたのです。それは函館が観光地だったということも大きいのでしょうが、地域の企業だけではなく、かなりのナショナルスポンサーを獲得していたことを見ても、媒体としての魅力あるという現れです。
むさしのFMを去り、2年間隔を置いて調布FMに契約スタッフとして入局しましたが、この頃には、全国各地に多数のコミュニティFMが開局してました。当時は出版営業の仕事と二足の草鞋状態で、仕事の合間に日本各地のコミュニティFMを訪ねていました。
中でも印象的だったのは、熊本シティエフエムで、私が訪ねたのは開局直後でしたが、九州初のコミュニティFMということで、活気を感じました。その熊本シティエフエムと20年以上経ち、再びご縁ができるとは思いもしませんでしたが、リスナーのとものりさん、ちび店長カンちゃん、きんどーちゃんたちが繋いでくださったおかげです。
この頃、「こちら雪国ふれあい放送局」という、関東・甲信越・静岡のコミュニティFM局でブロックネットを組むというプロジェクトも行われ、かつしかエフエム、調布エフエム、MAGIC FM、湘南ビーチFM、FM湘南ナパサ、FM OZE、FM茶笛、フラワーラジオ、エフエムゆきぐに、FMピッカラ、FMなぎさステーションの11局が参加しました。私もこのプロジェクトにオブザーバー参加し、エフエムゆきぐにの山本安幸局長から直接お話しを伺う機会に恵まれましたが、山本局長はまさに「ジャーナルな感覚」に溢れていたのです。このプロジェクトには参加されてませんが、FMながおかの脇屋局長とお話しした際も、山本局長と似た「ジャーナルな感覚」に溢れていることが分かりました。山本局長、脇屋局長の姿勢というのは、その後新潟県を襲った「新潟中越地震」の報道で発揮されたのです。
その後、甲信越の、とある地域にコミュニティFMを開設する動きがあり、この発足準備会側から支援要請があったので、当時のかつしかFM局長とFM茶笛局長に視察受け入れや申請書類の閲覧など、大変お世話になったのです。残念ながら発足準備会から私は身を引いてしまいましたが、未だにそこにはコミュニティFM開局できていません。
そこからかなりの期間コミュニティFMとは離れ、昨年20年ぶりにマイクの前へ戻りましたが、相変わらず「ヘタクソ」です。毎回同録聴いて恥ずかしくなること多々ありますが、日々勉強です。まだまだ修行が足りませんが、「ジャーナルな感覚」は、コミュニティだけに限らず、広域・県域などラジオに携わる上で最も重要な部分だと思います。城野さんなど諸先輩方にはまだまだ遠く及びませんが、「ジャーナルな感覚」も磨きをかけたいという思いが強くなりました。特に今はコロナ禍だからこそ必要な部分だと思います。
練馬放送が活動を再開しました。まだ完全再開、ではありませんが、活動再開嬉しく思います。 一日も早い開局、心より祈念しております。